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江東4区ゆかりの人物(19) 松平定信

 十一代将軍徳川家斉の治世に、幕府の老中首座として寛政の改革(一七八七−九三)を主導した松平定信(一七五八−一八二九)は、霊巌寺(江東区白河)で眠っており、いまでも新暦の命日にあたる六月十四日には墓前祭が行われている。この墓は一九二八年に国の史跡に指定されている。「白河」の地名は、白河藩(現在の福島県白河市辺り)の藩主だった定信にちなみ、昭和に入ってから東大工町、霊岸町、元加賀町、扇橋町の各一部を合併して白河町と名付けたことによる。

 定信は、八代将軍吉宗の孫で、御三卿の一つである田安家の出身。子どものころから英明で一時は同家の後継者と目され、さらに十代将軍家治の次の将軍候補となる可能性すらささやかれたという。しかし、一七七四年(安永三年)に白河藩主、松平定邦の養子とされた。これは、当時の実力者、田沼意次の政治に定信が批判的だったことが要因とも言われ、後の田沼派への徹底した粛清につながったとも考えられている。

 天明の大飢饉(ききん)さなかの一七八三年(天明三年)に白河藩主に就任。迅速な救済策などで、同藩では餓死者が出なかったとも伝えられている。こうした実績などを背景に、一七八七年(天明七年)に老中に就任。浅間山噴火や天明の大飢饉などで疲弊した幕府の立て直しを目指した。

 定信は、田沼時代の重商主義を否定し、吉宗の享保の改革を参考に倹約令や帰農令などで当時のスタンダードな政策である“農業中心主義”を推進。また、江戸の民衆の救済策として七分積金制度を創設。無宿人らの職業訓練施設である人足寄場の設置なども行った。七分積金の一部は明治まで引き継がれ、東京の道路整備や学校建設などに役立てられたという。

 定信は幕府批判を禁じ、出版も統制、蘭学を禁止するなど“窮屈”な施策も展開し、「白河の清きに魚のすみかねてもとの濁りの田沼こひしき」などとも歌われた。その後、一七九三年(寛政五年)に老中を「御役御免」となった後は白河藩主に専念し、一八一二年(文化九年)に隠居した。

 定信は、「花月草紙」や「修身録」などの著書や「達磨図」などの絵も残している。また、生涯に五つの庭園を造ったが、その最後の“作品”が一八一六年(文化十三年)に深川入船町(現在の江東区牡丹、同区古石場辺り)に造営した「深川海荘(はまやしき)」だ。江東区教育委員会によれば、地元の農家から借りた約四千三百−四千六百平方㍍の敷地に海水を入れた池や青圭閣などの建物を配し、普賢象(ふげんぞう)という桜などを植えた。現在、「海荘」の名残を伝える場所はほとんど残っていないが、同教委では今年度中に説明板を設置する計画だ。

 回向院(墨田区両国)には、定信が建立したと伝えられる水子塚がある。すみだ郷土文化資料館によれば、定信のかかわりはあくまで「伝」で、詳しいいきさつなどは分かっていない。

 〈霊巖寺〉江東区白河一の三の三二

 〈回向院〉墨田区両国二の八の一〇